LOGIN「……どうしよう」
佐倉大晴は、パソコンの画面を見つめたまま固まっていた。 画面には、一通のメール。 深雪からの返信だった。 『あなたが「ひなたのねこ」だと知っていることは、どうか忘れないでください』 昨夜、自分が送ったメールに対する返信ではない。 それでも、深雪の文章を何度も読み返してしまう。 「……怒ってるよな」 当然だった。 いきなり月100万円の愛人契約を持ちかけたのだから。 普通なら警戒する。 いや。 普通なら警察に相談するかもしれない。 「……やっぱり失敗だったか」 佐倉は額を押さえた。 仕事なら、失敗の原因を分析して次の手を考えられる。 経営判断。 市場調査。 投資。 交渉。 どれも得意だ。 だが。 「女性との距離の縮め方だけは、どうしても分からない……」 机の上には、一冊の雑誌が置かれている。 そこには深雪のコラムが掲載されていた。 佐倉は、そのページをそっと開く。 何度読んでも好きだった。 何気ない日常を切り取って、読む人の心を少しだけ温かくする文章。 彼女の文章には、人を見下ろさない優しさがある。 だからこそ。 実際に会ってみたいと思った。 Cafe Luceで本人を見つけたときは、本当に驚いた。 そして、話してみたら──。 もっと好きになった。 だから。 どうにかして近づきたかった。 結果。 月100万円の愛人契約。 「……どう考えても、おかしい」 佐倉自身も分かっていた。 そこへ秘書から内線が入る。 『社長、十時から役員会議です』 「ああ」 『それから午後は雑誌社との打ち合わせが』 「分かった」 『あと、先日の契約書ですが──』 「後で確認する」 仕事の話なら、いつもの佐倉だ。 声も表情も落ち着いている。 しかし。 電話を切った瞬間。 「……深雪さん」 小さく呟く。 その顔は、完全に一人の恋する男だった。 一方。 深雪はCafe Luceで、いつものように働いていた。 「深雪ちゃん、これ四番」 「はい!」 注文を運びながら、頭の片隅では昨夜のメールを考えている。 T。 和光。 そして、どこか自分を知っているような謎の男。 「……まさかね」 深雪は首を振った。 Tが和光だとは限らない。 ましてや、二人が同一人物だなんて。 考えすぎだ。 そのとき。 「すみません」 声をかけられた。 振り向くと──。 「和光さん」 「こんにちは」 いつもの常連客だった。 「今日も来てくださったんですね」 「ええ」 和光は少し照れたように笑う。 「ここのコーヒー、好きなので」 「ありがとうございます」 深雪は笑顔を返した。 すると和光が、少し迷ったあとに尋ねた。 「塩入さん」 「はい?」 「……文章を書くのが好きなんですか?」 「え?」 一瞬、深雪の表情が固まる。 「どうして……?」 「あ」 和光が明らかに慌てた。 「いや、その……以前、文章を書いているところを見かけたので」 「そうでしたっけ?」 「……たぶん」 「へえ」 深雪は首を傾げた。 和光は視線を逸らす。 「文章、お好きなんですね」 「はい。趣味ですけど」 「趣味……」 和光は少しだけ寂しそうな顔をした。 「……あなたの文章、もっと多くの人に読んでもらえたらいいのに」 「え?」 深雪が目を丸くする。 和光は慌ててコーヒーに口をつけた。 「……すみません。変なことを言いました」 「いえ……」 深雪は考え込む。 その言葉。 昨夜、Tから届いたメールと似ていた。 『あなたに、もっと自由に文章を書いてほしい』 まさか。 「……和光さん」 「はい?」 「もしかして、私の文章──」 「違います」 「まだ何も聞いてませんけど?」 「…………」 沈黙。 深雪は目を細めた。 和光はますます挙動不審になった。 「……やっぱり、変な人」 「よく言われます」 そう言って、和光は苦笑した。 その日の夜。 深雪は自宅でパソコンを開いた。 新しいエッセイを書く。 テーマは「変な人」。 少し考えてから、タイトルを入力した。 『人は、知らないところで誰かを見ている』 書き始める。 今日のカフェでの出来事。 言葉にできない違和感。 誰かが自分の文章を読んでくれていること。 そして。 自分自身が、思っている以上に誰かの心に届いているのかもしれないこと。 書き終える頃には、深夜になっていた。 「……できた」 深雪は満足して保存する。 その直後。 スマートフォンが震えた。 メール。 差出人──T。 『今日、和光という男性と話しましたか?』 「…………」 深雪の顔から、笑みが消えた。 数秒後。 もう一通届く。 『彼には気をつけてください』 「……え?」 深雪は画面を見つめた。 Tは──。 和光のことを知っている。 そして、まるで彼を警戒しているようだった。 深雪の中で、一つの疑問が生まれる。 「……Tと和光さんって、知り合いなの?」 その頃。 佐倉大晴は自宅で、頭を抱えていた。 「……しまった」 送信済みのメールを見つめる。 「これじゃ、余計に怪しまれる……」 敏腕経営者・佐倉大晴。 その恋愛戦略は、今日も完全に迷走していた。「……どうしよう」 佐倉大晴は、パソコンの画面を見つめたまま固まっていた。 画面には、一通のメール。 深雪からの返信だった。 『あなたが「ひなたのねこ」だと知っていることは、どうか忘れないでください』 昨夜、自分が送ったメールに対する返信ではない。 それでも、深雪の文章を何度も読み返してしまう。 「……怒ってるよな」 当然だった。 いきなり月100万円の愛人契約を持ちかけたのだから。 普通なら警戒する。 いや。 普通なら警察に相談するかもしれない。 「……やっぱり失敗だったか」 佐倉は額を押さえた。 仕事なら、失敗の原因を分析して次の手を考えられる。 経営判断。 市場調査。 投資。 交渉。 どれも得意だ。 だが。 「女性との距離の縮め方だけは、どうしても分からない……」 机の上には、一冊の雑誌が置かれている。 そこには深雪のコラムが掲載されてい
翌日の午後。 深雪は、Cafe Luceのカウンターで一人、スマートフォンを睨んでいた。「……Tって、誰なんだろう」 昨日から、そればかり考えている。 メールの内容からすると、Tは深雪の文章をかなり前から読んでいる。 しかも、ただ読んでいるだけではない。 深雪自身のことまで、ある程度知っているようだった。「怖いな……」 けれど、気になる。 深雪は検索画面を開いた。 ペンネーム「ひなたのねこ」。 自分自身について検索するのは、少し恥ずかしい。 けれど、Tを探す手がかりがあるかもしれない。 検索結果を眺める。 自分のコラム。 過去のエッセイ。 読者の感想。 そして──。「あ」 一つの記事が目に留まった。『今注目の若手エッセイスト・ひなたのねこ』 掲載されたのは数か月前。 そこには、連載している雑誌名も、簡単なプロフィールも載っている。「……これだけなら、誰でも読めるよね」 Tが特別な人物だとは限らない。 そう考え直したところで。「深雪」 背後から声がした。「わっ!」 スマートフォンを慌てて伏せる。「何してんの?」 そこにいたのは、居酒屋のバイト仲間、立花薫だった。「な、何でもない」「怪しい」「本当に何でもないって」「ふーん」 薫は深雪の隣に座った。 いつも通り、華やかなメイク。 流行の服。 SNSで見れば、きっと毎日楽しそうに見える。「ねえ」 薫が突然言った。「深雪ってさ、金持ちの男に愛人にならないかって言われたら、どうする?」「……え?」 深雪は固まった。「なんで?」「いや、昨日SNSでそういう話が流れてきたから」「……」 偶然。 たぶん偶然。 深雪は自分に言い聞かせた。「私は断るかな」「即答?」「うん」「もったいな」 薫は笑った。「月100万円とかなら?」「……」「生活全部面倒見てくれるとか」「それでも嫌」「なんで?」 深雪は少し考えた。「……自分が、自分じゃなくなる気がするから」 薫が黙った。「お金をもらうことが嫌なんじゃない。でも、その人に選ばれたことが、自分の価値みたいになるのは嫌かな」「……ふーん」 薫はそれ以上何も言わなかった。 ただ、どこか納得していない顔をしていた。「まあ、私なら一回話くらい聞く
翌朝。 深雪は、眠い目をこすりながらスマートフォンを見つめていた。 昨夜のメール。 月100万円の愛人契約。 何度読み返しても、書いてあることは変わらない。「……夢じゃなかった」 ため息をつく。 午前一時まで働いたあとに、こんなメールを受け取るなんて。 しかも相手は、自分の文章を読んでいるという。「どういう人なんだろう……」 深雪はメールをもう一度開いた。 差出人は「T」。 本名も、年齢も、職業も分からない。 ただ、メールには一つだけ具体的な条件が書かれていた。『月額100万円をお支払いします』「……100万円」 思わず口に出す。 100万円。 それだけあれば、奨学金の返済もかなり楽になる。 実家への仕送りだって増やせる。 今月、シフトを一日減らしてもいい。 毎日終電近くまで働く必要もなくなる。 ──でも。「だからって、愛人は無理でしょ」 深雪は首を横に振った。 お金が欲しくないわけではない。 むしろ、欲しい。 ものすごく欲しい。 けれど、お金と引き換えに誰かとの関係を買うことには抵抗があった。 それに。「私、そんなに器用じゃないし」 愛人なんて、できるわけがない。 相手の機嫌を取って、恋人のふりをして、秘密の関係を続ける。 想像しただけで胃が痛くなった。 深雪は返信画面を開く。『申し訳ありませんが、お断りします』 入力して。 送信。「よし」 これで終わり。 そう思った。 ところが。 五分後。 スマートフォンが震えた。『承知しました』「……早っ」 返信が早すぎる。 深雪は警戒しながら続きを読む。『ですが、理由を教えていただけませんか?』「理由?」 そんなもの決まっている。 愛人になりたくないから。 深雪は少し考えてから返信した。『お金で人間関係を作るのが嫌だからです』 送信。 すると、今度は三分ほどで返ってきた。『あなたらしい回答ですね』「……は?」 深雪の眉が寄る。『どういう意味ですか?』 返信。 しばらく待っても、今度は返事が来なかった。「……何なの?」 気味が悪い。 けれど、同時に引っかかる。 ──あなたらしい。 まるで、以前から自分を知っているような言い方だった。 その日の昼。 深雪はいつものようにCafe Luceで働
朝六時。 塩入深雪は、目覚まし時計が鳴る三秒前に目を覚ました。「……あと五分」 そう呟いて、布団に顔を埋める。 そして五分後。「──って、無理! 遅刻する!」 飛び起きた。 寝癖を手ぐしで直し、顔を洗って、トーストをくわえながら鞄を掴む。 今日も、いつも通りの朝だった。 大学の奨学金返済。 実家への仕送り。 家賃と生活費。 二十三歳の深雪にとって、「余裕」という言葉は辞書の中にしか存在しない。 昼はカフェ「Cafe Luce」。 夜は居酒屋。 二つのアルバイトを掛け持ちして、空いた時間に文章を書く。 それが、深雪の日常だった。「深雪ちゃん、おはよう」「おはようございます!」 カフェに駆け込むと、先に来ていた店長が笑った。「今日もギリギリね」「すみません!」「でも間に合ってるから偉い」「それ、褒めてます?」「半分くらい」 笑いながらエプロンを身につける。 忙しい。 疲れる。 眠い。 それでも、この仕事が嫌いなわけではなかった。 注文を受けて、料理を運んで、お客さんに「ありがとう」と言ってもらう。 そういう小さなやり取りが、深雪は好きだった。 そして、もう一つ。 深雪には誰にも話していない「好きなこと」がある。 文章を書くこと。 スマートフォンを開けば、そこには別の名前のアカウントがある。 ペンネーム──「ひなたのねこ」。 日常の小さな出来事。 電車の中で見かけた親子。 雨の日に傘を貸してくれた見知らぬ人。 コンビニ店員の何気ない一言。 そんな些細な出来事を、深雪は文章にしていた。 最初は完全な趣味だった。 けれど、ある日。 投稿したエッセイがコンテストで入賞した。 それをきっかけに、女性向けファッション誌から声がかかり、現在は月一回のコラムまで担当している。 けれど。 深雪は、そのことを周囲にはほとんど話していない。 別に隠したいわけではない。 ただ──。「文章で食べていけるわけでもないし」 そう思っていた。 だから、昼はカフェ。 夜は居酒屋。 文章は、その合間。 それで十分だと思っていた。 その日の夜。 居酒屋の仕事を終え、深雪は午前一時過ぎに帰宅した。「つかれた……」 ベッドに倒れ込む。 スマートフォンを見ると、編集部から